――どうして映画監督になろうと思ったのですか。
「大学時代は探検部に所属して、インドネシアでバイク縦走計画をしていた際、8ミリ映画の存在を知りました。
当時はルポライターになりたいと考えていましたが、撮ったものをそのままの形で、見てもらえる映像の魅力に惹かれ、映画を作ろうと思うようになりました。
大学卒業後、すぐに映画の制作現場に飛び込み、助監督、監督として数本の記録映画を作った後、文化庁から奨学金(芸術家海外派遣助成金)をいただいて、カナダ国立映画製作所で勉強しました。
その後、新しいテーマを模索しようと出かけたニューヨークで気づいたのは、メディアはマイノリティーなどの弱い人の声をほとんど伝えないということでした。
それまで映画には芸術性が大事だと考えていましたが、こうした人たちの声こそ伝えるべきと、ドキュメンタリーを作っていくことにしたのです」
――原発をテーマにしたのはどうしてですか?
「日本に帰ってきた頃はちょうど、BS放送の勃興期で、当時はテレビのドキュメンタリー番組を作っていました。
1998年、イラクを取材した際、米軍が使用した劣化ウラン弾により子供たちが白血病やがんになって、死んでいく光景を目の当たりにしました。
取材を進めていくうちに、劣化ウラン弾は原子力産業のゴミであることが分かりました。平和利用されていると思っていた原発の副産物が兵器となってイラクの子どもたちの『死』に加担していることを知り、たいへんショックでした。
知らず知らずのうちに構造的な暴力に組み込まれている事実を伝えていく必要があると思いました。なぜ、イラクの子どもが死んでいるのか、その理由はどこにあるのかをテーマに作ったのが、『ヒバクシャ―世界の終わりに』です。
青森県の六ヶ所村では、日本中の原発の使用済み燃料を再処理する核燃料のリサイクル計画がありました。この計画の意味は何なのか。また、そこで暮らす人たちの声を聞きたいと思いました。そこで2年をかけて作ったのが『六ヶ所村ラプソディー』です。
原子力産業を赤裸々に描くこと、賛成派、反対派、その中で生きている人の光と影を描きました。しかし、そこでぶつかったのは、原発の危険性、問題を取り上げるだけは、何も解決しないということでした。
そこで、『持続可能な社会』を作るために、どう行動するべきなのか、追求していく必要があると思ったのです」
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